歴史と伝承                    語りつがれる 二七不動尊と東郷さんの物語
                  
二  七  不  動  寺  本  尊                             


二七不動堂正門


二七不動堂は平成十七年四月に残念ながら焼失してしまいましたが、それまでは千代田区九段四丁目にございました。 
現在は少し離れた千代田区三番町二十四番の地に移転いたしました。
   
法  要  風  景 





二七不動尊由来
 (語り継がれるお不動様の物語)
 
 この二七不動尊の由来は、先々代品川寺住職仲田順海和上の御弟子で、二七不動尊堂守であった故福島秀宝師が、語りつがれてきた由来を次世代へ伝えるた
め、お纏めになられた史料を基に表現等を一部変更して掲載しています。








 からかぞえれば昔のはなし。昔、ここ番町に直参旗本三千五百石どりの桜井遠江之守屋敷があり、その馬かけ場の一遇に小さな塚があってその上にお不動
さんの祠があった。

 その当時は付近の信心げのある人々がたまにお参りに来る程度であまり繁盛しなかったらしく、お不動さんもせっかく信心堅固の者に後利益を呉れてやろうと意
気込んでいたが、余り閑なので手持無沙汰でいたところ、たまたま九州から東海道を上ってきた松本某という六部がこのお不動さんの前でいっぷくしているうちにう
とうとと仮眠してしまった。

 其の時の夢にお不動さんが「おい乞食坊主、お前がいくら日本中修行したとて名僧智職にはなれないから、この地に止まり私を供養して祈れば、私もお前に衣食
住を与えてやろう。」と言われて目が覚めたが、別に気にもせずに出発してから一丁程行くと煙草入れを忘れたのに気付き、引き返し、たばこ入れをとって歩き出し
た。

 また、一丁ほど来て今度は手拭きを忘れたのに気附き、再び取りに来て今度こそはと祠をあとにして、また一丁程くると一番初めにお不動さんを祈る時使用した念
珠を祠の台石に置き忘れたのに驚き三度引き返して取りに来たとき、ようやく先ほどの夢が気になり、どうやら正夢のように思われたのでついにこのお不動さんの前
で野宿したのが始めで、やがて掘立小屋を造り、托鉢をしながらお不動さんを祈り供養しているうち、篤信の人が小さな堂を寄進したのに始まってだんだん参詣者も
ふえて来た。

 それで少しはお不動さんの修行をせにゃんらんと思って修行を重ね、更に27日の間、断食して荒行した。 以来、二七不動と称し縁日も二、七、十二、十七、二十
二、二十七、と月六回の縁日と決めたもので、別にお不動さんが申し渡したものではないらしい。 尤も縁日を多くした方がいろいろ都合がよいとの方便だったかもし
れない。

 このお不動さんは、お参りに来るお客さんを大切にしたとみえて信者の願いを良く聞き届け月日を重ねるうちにますます繁盛した。
 尤も、お不動さんの経文中にはこの明文は信心願主のねがいに従って然も利益を多く給うと説かれているから、お不動さんとしては、当然の義務を果たしたわけ
だ。

 其の後、歳かわり星うつりて、のち堂守がこのお不動さんを神田美土代町の質屋に当時の金で三両で入質したが、其の堂守は野垂れ死にして仕舞ったそうな。
また預かった質屋の主人は眼病に悩み、番頭は蔵の梯子から落ちたのがもとで死んで仕舞ったので、質屋はこのお不動さんを返すという話がきまり、当時の三業
柴田見番時代に牛車に赤毛せんを敷いてお不動さんをのせ、木遣り音頭で不動堂へお返ししたという話がある。

 現にその当時の実況を知っている人がまだ元気で居る。(本書が記載された当時)
 其の後改築したり増築したりして堂宇らしくなった時、大正十三年の震災で灰尽に帰したが、再び町内の有志篤信の人々の力で立派な不動堂が再建されたが
又々、第二次大戦の戦災で堂宇は焼け出されたが、お不動さんだけは全く無事だったことは信者にとっては誠に不幸中の幸いであった。

 終戦直後鎌倉の有名な寺の堂宇をゆずり受けてきたのが現在の不動堂である。(平成17年4月焼失)
 もとは町内の不動堂でありお不動さんであったが、現在は真言宗醍醐派別格本山品川寺の別院となっている。

 昔は麹町区内には他に仏堂が全くなかったので、このお不動さんだけが仏法僧の一人じめだったせいか、二七の縁日もなかなかに盛大で縁日商人も百を数え、
植木屋の夜店もこと更ににぎやかであったと古老は語っている。



 東郷さんと二七不動尊
ところで、この二七不動尊と、東郷さんとのつながりについて、簡単に述べて見ましょう

 明治十五年、東郷さんは結婚した翌年に、それまで住んでいた品川の下宿屋から(現在の東郷公園敷地)移り住んだのであるが、たまたま明治二十七、八
年の日清戦争が起こり、東郷さんは「浪速」の艦長として出征した際、留守を守っていた母堂(満子)が息子平八郎の武運長久を二七不動尊に祈願してお百度
詣でをした。(当時の石は今もって二七不動尊境内に残っている)注:平成17年4月の火災により消失した。
 そのことが東郷さんと二七不動尊とのつながりの最初のできごとであった。

 その母堂も明治三十四年に八十歳の天寿を全うして逝去されたのである。ところが日清戦争のあとしまつに絡まる諸問題がこじれてしまい、日露戦争が始
まってしまったのである。

 そして明治三十八年五月二十七日、即ち日本の運命を賭けた一大海戦、日本海海戦となり、日本の海戦史はもとより世界の海戦史にもその類例を見ない
程の完全な勝利をおさめ、一躍島国日本を世界の日本に昇格させた、日本国民の記念すべき勝利の日であった。

 あのZ旗のもとにつどって、世界最強と言われた当時のロシア大艦隊を撃滅した戦いとその勝利を祈念すべく、以来この日を海軍記念日と定めていたが、
第二次大戦による敗戦によって全く打ちわすられてきていることは周知のところである。

 ところで、東郷さんの奥さんは、毎朝このお不動さんに日参し、お百度を踏まれて出陣将兵の無事と勝利を祈願せられていたのである。そして奇くも勝利の日
が満願の日、即ち二七の日であったのも単なるう偶然とは言い得ないところとみられているのである。

 その後東郷さんはこのことを知り、自宅にあった楓の木を自ら二七不動堂の境内に手植えられたり、またまたの二七の縁日には直々奥さん共々参拝せられ
ることもしばしばであった。
 更に自ら筆をとり、南無大日大堅不動明王と書かれて奉納されるなど、いまもってかたりつたえられているところである。

 また、たまたま大正一二年の震災で堂宇が火災に逢い、お不動さんの安置所に困っていた際、東郷さんは、自分の家が災害を免れたのもこのお不動さん
を信心していたためであろうから遠慮なく最も清浄と思うところへ安置しなさいと申されたので、表玄関の高所に不動堂の再建洛慶の日までの八十余日間も
安置さしていただいたばかりか毎朝茶湯の御供物も供えられるなど、真心こもったもてなしに、地元町内関係者は東郷さんの心からの配慮に感謝したもので
ある。

 お不動さんが八十余日もの間を玄関使用していた為、東郷さんを訪ねられる高位高官が皆このことを知っているばかりか
その訳を聞き知り東郷さんの御
心の深さに感激したといわれる。

 そのお不動さんゆかりの東郷さんの御屋敷も現在は千代田区へ寄贈せられ東郷公園と呼ばれてる小公園として保存され、今なお松杉の樹々が蒼々として
緑をたたえ、付近の子供たちの良き遊園地となっている

 由来を知らぬ人々にとっては、この小公園が在りし日の東郷さんの御屋敷跡などということは思いもかけず過ぎ去るのであるが、今ここ日本の東郷さん、い
や世界の東郷さんの、あの三笠艦上に於いて、不動の精神をもって、おのが信ずるところに従って指揮を取られた決断に今更ながら感銘を新たにしておるも

のです。








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