数奇な運命を辿った大梵鐘の物語をお楽しみ下さい

品川寺 大梵鐘物語   
 
品川寺大梵鐘は、品川寺弘尊上人の発願によって、明歴3年(1657年)9月18日に鋳造されたもので、京都三条・大西五郎左衛門(おおにしごろうざえもん)の作です。鐘面には京都七条の大仏師・康斎(こうさい)が6体の観音像を浮き彫りにし、さらに観音経一巻が陰刻されており、『武蔵風土記』『江戸名所図絵』などに記されているように、「世にまれなる梵鐘」として、今日に伝えられています。

 この名鐘が、江戸時代の末期、いかなる理由によってか海外に搬出されたまま行方不明になってしまいました。慶応3年(1867年)パリの万国博覧会に出陳され、ついで明治4年(1871年)オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会にも、多くの日本美術品とともに展示されていたことが伝えられていました。

 この不思議な運命をたどる梵鐘は、その後スイス国ジュネーブ市の名士ルビリオ氏の手もとに保管され、同氏の遺言によって梵鐘は、邸宅と共にジュネーブ市に寄贈され「アリアナ美術館」として市民の友となりました。品川寺先代、順海和上は、梵鐘が海外に搬出されたことを町の古老から聞き、大正年間を通して全世界、鐘を求め探しました。
 外交官を訪ね、留学生に話し、海外旅行をされる方にお願いし、あらゆる努力の結果、大正8年(1919年)その所在をジュネーブ市・アリアナ美術館に求めることができました。そして、ジュネーブ名誉領事ケルン氏こ書簡をしたため、大梵鐘の返還の願いを伝えました。

「日本の梵鐘は、時を告げると共に、人々がこの響きを耳にする時、信仰を呼び起こし、心豊かな生活を営む基調となっている。寺が鐘を鋳造するについては、願いをこめ、多くの人々の寄進により造られ、鋳造中は願いをこめ祈り、鋳造者は心身を清め、一心不乱に名鐘を作り出そうとつとめます。」
 一通の書簡は、ケルン氏を動かし、順海和上の願いは、時の外務大臣・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)氏、スイス特別全権公使・吉田伊三郎(よしだいざぶろう)氏を通じ、ジュネーブの理解を得、昭和4年(1929年)10月15日ジュネーブ市議会は、満場一致の議決をもって、大梵鐘を品川寺へ贈還することを決しました。 昭和5年(1930年)3月4日、大梵鐘は、ジュネーブ市を出発することになりました。その時の様子をジュネーブの国際労働機関日本事務所の吉坂(よしざか)理事は長文の手紙で伝えています。
「日本晴れの朝、大気は殊の外ほか清純でした。公園は永い間滞在していた友人の品川寺梵鐘に永別を告げるかのように、その枯草の敷物の下から、ここかしこに桜草が萌えはじめて、早春の衣装に包まれていました。運送準備のため今朝(3月4日)8時からダンザアス運輸会社の専門職人6人が従事し、まず梵鐘を土台から撤去、ついで運送中の危険を避けるため丁寧に包み、約1300キロの重量に耐えるよう特別に準備された木製の枠の中におかれたのです。
梵鐘が運送自動車に積み上げられたとき、その中から哀哭(あいこく)するかのような音をたてました。周囲に居合わせた人びとは、それを哀惜(あいせき)の表象、感謝のしるしだと思ったのであります。これらの仕事を終わるのに約4時間を費やしたので梵鐘が帰郷の旅路に出発し、親愛なる事物に永別を告げたのはかれこれ正午ごろでした。
このとき小生は、博物館の年老いた門衛が両眼に涙をたたえているのを見とめました。慰めようと近づいて行くと、彼は「あなたも御存知でしょう。私は公園閉門のために18年間、毎夕この梵鐘を鳴らしたのですよ。だからこの梵鐘の出発を見送るのは、私は残念でたまらないのです。」といいました。彼はまた、梵鐘に興味を引いた多くのさまざまな訪問者を追想して語りました。
昔、博物館と公園の親切な寄贈者であるルビリオ氏は、この梵鐘を日本の風習に従って真夜中にニ回打ち鳴らすように命じたのでした。しかしながら彼の死後は、ただ公園閉門の時刻を報ずるだけであったのです。
梵鐘の音は、アリアナ公園に続いている湖の彼方に響きわたり、数マイル離れたグランジュ公園においても聞き得たほど、澄み切った力強い音でした。ですから、湖の向側のデオグライ村に生活していた詩人バイロンやシルレルが、もう50年も後まで生きながらえていたならば、彼らはきっと、梵鐘の音に感動して、もうーつ他の『鐘の歌』を作り、その永久不朽の詩集をいっそう豊かにしたことでありましょう。」

 風光明媚なアリアナ公園を出発した大梵鐘は、3月24日、マルセイユから、日本郵船「諏訪丸」に搭乗され、一路日本へと向かい、4月24日、無事横浜港に到着しました。そして、順海和上の悲願は、昭和5年(1930年)5月4日、東京日比谷音楽堂での「スイス国贈還大梵鐘歓迎会」と、翌5月5日品川町民総出で迎えた「品川寺大梵鐘歓迎会」で大きく実を結びました。

 5月4日晴天の日比谷音楽堂は、5000人の東京府民で立錐(りっすい)の余地もなく午後1時30分スイス、日本両国国旗の掲揚、両国国歌の吹奏で歓迎会は開会。歓迎会会長・小泉又次郎(こいずみまたじろう)逓信(ていしん)大臣の挨拶。次いでスイス国トラベエルシニー駐日公使の式辞は、参列者一人一人の心をうち喜びの涙なしには聞き得なかったと今日も語り伝えられています。
「品川寺の梵鐘は、悪戯(いたづら)好きの運命が与えた幾多の変遷(へんせん)を経て、ジュネーブ市に暫(しば)しの憩いを求めたのでありました。皆様の梵鐘が、スイス国に於いて、決して不幸ではなかったと確信しています。もし、どなたかが梵鐘に『何かご不自由がありましたか。』と言葉をかけられるならば梵鐘は、『なにも不自由はありませんでした。』と答えるでしょう。アリアナの公園は美しい住家(すみか)であって、愉快な滞在をなすに非常に適しております。公園の前には湖があって、その湖の周りに、生い茂った樹々の木の葉がくれに、数多くの風車が見えております。そして、公園は、その上を踏み歩くのがもったいないぐらい新鮮で清純な緑の芝生が広がっております。また、そこには可愛らしい無邪気な野生の動物が、美しい足どりで走り回っております。梵鐘は、世界巡行の神秘的な旅行の途中ここで、その周りで遊ぶ子供等のあどけない瞳や、もっともらしく、梵鐘の銘文の謎を解かんとする通りがかりの人々の姿を静かに見守ってきたのです。しかしながら、ジュネーブ市は、本日、300年の間、大梵鐘の妙音によって多くの人々の生活を支えた品川寺へ返すことを喜んでおります。梵鐘は、もはやどこえも行かないでしょう。」

 式辞に続き、帰国第一鐘が高らかにうち鳴らされ、その余韻の美しさにしばしの沈黙が続きました。
 翌日、5月5日、天候は、花曇り、牛車にひかれた大梵鐘は、60年のさすらいの旅から帰るにふさわしく、江戸の情景そのままに迎えられました。
 品川町民総出迎えの中、東海道品川は金棒を先頭に、町内旗、在郷軍人、青年団、御稚児(おちご)、修験道山伏(しゅげんどうやまぶし)、消防隊、念仏講(ねんぶつこう)、木遣り道中(きやりどうちゅう)、大梵鐘、品川寺住職、各宗寺院、品川町役員、学校代表、諸団体代表、品川寺信徒と500人を数える行列で、3キロの道中を2時間にわたり、ゆっくりと行進し、正午に品川寺につきました。

 大梵鐘は到着と同時に、江戸六地蔵前の仮り鐘楼に安置され、午後1時、荘厳な法螺貝(ほらがい)の音声を合図に「鐘供養」が厳かに執行され、妙音は、再び品川寺にこだましました。この日、品川寺の境内は、1200人の信徒、町民でにぎわい、深夜まで梵鐘の帰還を喜びました。
 この品川あげての喜びは、品川町議会の「感謝決議」をもって、スイス・ジュネーブ市参事会会長ジョン・アルバレーのもとへと届けられました。

感謝状
 拝啓かねて御返送方(ごへんそうがた)御願い申上候(もうしあげそうろう)。當町品川寺の大梵鐘が貴市、並に貴国民に深甚(じんじん)なる御好意によって、先般その誕生の地に送還されたれ候は、永遠に記録せらるべき国際友好の上の一大感激に御座候(ござそうろう)。
 茲(ここ)に謹(つつしん)で貴市並びに貴市諸彦(しょげん)の御芳志(ごほうし)に満腔(まんこう)の感謝を捧げ候と共に更に、貴国並に貴国民が真に自然の美と平和の愛とに充たされる世界幸福の揺藍(ようらん)たる事実を親しく感銘(かんめい)絶大の敬意を表する光栄を有するものに御座候該(その)梵鐘は諏訪丸による帰国の途中に於(おい)て既(すで)に全国的の感興(かんよ)惹起(じゃくき)し、到(いた)る處(ところ)その奇縁(きえん)を語り感謝を囁(ささや)き候。
 次第(しだい)有之(これあり)去(すぐ)る4月26日無事横浜着、5月4日には、首都東京市の中央なる日比谷公園内音楽堂におて貴国大使閣下御来臨(ごらいりん)の下に朝野協賛(ちょうやきょうさん)の盛大なる歓迎会が開かれ、翌5日我が国古式(こしき)の木遣音頭(きやりおんど)及び稚児(ちご)行列其他(そのた)の盛儀を以て愈々(ゆうゆう)品川寺に牽引(けんいん)せられ60年前の旧居に収められ候。
 ときは全町民全市民の歓喜は絶頂に達し二日(ふつか)に亘(わた)りいとも荘厳なる鐘供養を行い当町空前の祭礼的(さいれいてき)賑(にぎわ)いを示し、殊(こと)に鐘供養第2日には再び貴国大使のご来場を仰(あお)ぎ御祝辞を賜(たまわ)るの光栄に浴し申候。其の数日に亘る国民的感激と盛況とは全くご想像に御任せ申し候外無之(そうろうのほかこれなし)候。

 該梵鐘が60年の間貴地に於いて貴国民に愛され候は真に不思議なる縁に御座候。詩人バイロンが「レマンの湖はその水晶の面をもって我に甘(あま)へき」と歌いしその湖上を渡りては同じ詩人が「自然の殿堂」と称へたるアルプスのほとりまで朝に夕に訪れ居たりしを思い候へば彼が風光明媚(ふうこうめいび)なる貴国に在りて平和愛好の貴国民に親しまれ候こと彼(かれ)にとりて何たる幸福たりしぞやとそそろに欣悦(きんえつ)を禁じ得ず候。今や彼は貴国の寛容なる御好意によりて母国に帰るを得たるに候。今後は湖上の月に平和の妙音を奏(かな)で候代わりに廣重(ひろしげ)の絵に描かれし品川海上の月と語りユングフラウの白雪を訪れし代わりには将軍徳川が城を築きし武蔵野(むさしの)を越えた「日本の象徴」富士山の雪を訪れつつ永(とこ)しえに佛果結縁(ぶっかけちえん)の福音(ふくいん)をスイスの魂に捧げる感謝の讃歌とともに高らかに響き出すを忘れざることを何卒(なにとぞ)御高承奉願候(ごこうしょうねがいたてまつりそうろう)。

 偶然たる宗教的一事件が貴国と我が国との親善に一層を加え候は誠に欣快(きんかい)の至りに御座候而(しか)も事当時に関し居りし意味において当職は特に無限の感激と敬虔(けいけん)の情に堪(た)へざる次第に御座候。我が品川町会は特に町会を開き満場一致の決議を以て深厚なる拝謝(はいしゃ)の意を表明仕(ひょうめいし)候。而も尚(なお)如何(いか)にせば吾等(われら)の真情(しんじょう)を十分に御了解願い得べきやと懸念仕居候次第(けねんしつかまつりしそうろうしだい)に御座候。
 我が国は貴国の「時計」によりて時間の観念を教えられる處少なからず候に今又吾々(われわれ)は梵鐘の告ぐる「時」によりて貴国の「友情」を永遠に思い起こす事相成(あいなり)申し候は妙味一段(みょうみいちだん)の事に御座候。茲に此の浅からざる因縁も申述(もうしの)べて繰返し感謝の意を表し申し候。
 終わりに貴市並びに貴国の御隆盛を衷心(ちゅうしん)より奉祈(ほうき)候。


 昭和5年5月
 日本東京 品川町会 大橋 清太郎
 スイス・ジュネーブ市参事会長
 ジョン・アルバレー閣下 

 これより先、ジュネーブ市において品川寺への大梵鐘贈還の決議がなされたとき、品川寺は、ジュネーブ市に、唱道寺型石灯篭(しょうどうじがた・いしどうろう)を制作し、『観音経』の一句「慧日破諸暗(えにちはしょうあん)」を選び、東郷平八郎元帥に執筆していただき、これを灯篭正面に刻み、裏面に
「茲に大日本東京品川寺の大梵鐘を返還さらるに際し深厚なる感謝の意を表せん為本石灯篭を贈る」
と銘し、贈ることを決定し、昭和5年(1930年)3月6日、ジュネーブ市アリアナ美術館にお贈りしました。
 大梵鐘贈還後は、順海和上は常に、スイス国ジュネーブ市の皆様にどう答えたら良いかを考え続けました。まず、大梵鐘の永世護持を考えました。そのために大梵鐘を国宝に指定すること。そして、大梵鐘にふさわしい鐘楼を建立することを思案しました。はからずもこの願いは、昭和12年(1937年)9月17日に新鐘楼が竣工し、次いで昭和16年(1941年)10月1日に大梵鐘は、国宝に指定されることで達せられました。第2次世界大戦中には、大梵鐘の供出命令も出され、これを拒むため品川寺は、大梵鐘と江戸六地蔵を残し、一切の金物を供出しました。順海和上の心の中には「大梵鐘が品川寺にあるかぎり、町は安泰で栄え、お寺も共に歩む」という強い信念を秘めておりました。
 次いで、昭和39年(1964年)東京オリンピック開催という慶事に、順海和上は、大きな喜びを持たれました。「きっとスイス国から選手団が来日される。是非、品川寺にご招待したい。」この願いは、10月8日、スイス選手団150名の品川寺訪問となって実現しました。この時、81歳の順海和上は、
「もし、自分に余命が与えられるならば、新しい梵鐘を鋳造し、この梵鐘と共にスイス・ジュネーブ市の土を踏み、余韻の中に立つアリアナ美術館の灯篭に相見(あいまみえ)たい。」
  と次なる願いを語られました。
 紹介記事(新聞等)
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